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満喫台湾×みはら ~初めましてイーファンです~

三原市公式note

享受台灣×三原~
很高興認識你們,我叫怡芳。

(不懂日文也沒關係,下面有中文版,請往下拉唷)

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三原市には約2,000人の外国籍の方が暮らしています。
市公式noteでは,三原で活躍する外国籍の方から見た三原をご紹介します。一人目は 沼田東コミュニティーセンターでの講座を始め,三原と台湾を繋ぐ様々な活動をされているイーファンさんです。
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初めまして、イーファンと申します。
カタカナで名前を書いたので、はい、つまり、外国人です。私の故郷はどこかというと、最近パイナップルで話題になった「台湾」というところです。

実は台湾も漢字が使われている国ですから、カタカナではなくて漢字で名前を書いてもよかったのですが、私の名前は常用漢字ではないので、ほとんどの人が読めないのです。それで皆さんが覚えやすいように自己紹介のときいつもあえてカタカナにしています。名前を漢字で書くと「怡芳」になります。三原に移り住んでから14年、この4月から15年目に突入しました。

それまでは京都で留学生として勉強していました。京都は外国人の憧れです。家の外に一歩出れば、出会える「和傘を差して振り返る着物美人」に魅了されます。しかし、住むとなると、京都の気候に参ってしまいました。夏は暑く、冬は寒い・・・。こんなところに天皇家は1200年も住んでいたのですか。思えば中国の北京も同じく「夏は暑く冬は寒い」ことで有名なので、もしかしてこれが首都の特徴でしょうか。

京都の盆地気候に悩まされた私は2007年3月19日にご縁があって三原に移り住みました。瀬戸内海の多島美、雨が少ないカラッとした青空を見ると暗く落ち込んだ気分も一瞬で解消されます。私の生まれ育った台北は盆地なので、夏は京都のように蒸し暑く、年中ロンドンのようによく雨が降っていて湿気が多いのですが、三原は台北と真逆で地中海性気候のようです。雨が少なく年中快晴なので、住み始めたら虜になって離れられません。

初めて三原に来たのは2007年ではなかったのですが、かつて国道二号線(今の185号線)を通過した覚えがあり、「いたって普通の町」という印象でした。三原に来た初日のランチは古浜にある「おかめ」の手打ちうどんでした。その時はまだ、私にとって三原は未知の領域だったので、主人に連れて行ってもらいました。コシのある麺がとても美味しくて思い出に残っています。

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あれから幾星霜・・・ここ、三原が私の人生のたどり着いた場所だなあと今感じています。三原で家庭を築き、娘と息子の子育てをしているうちに多くの暖かい三原市民と出会えました。天からの授かり物のおかげで多くの出会いに恵まれました。最初の頃はフィリピン人のコミュニティーに参加して、さつき祭の舞台で踊ったりしました。子供たちには小さい頃から多くの異文化に触れてもらいたくて様々なイベントに積極的に参加しました。台湾にも長い休みがあれば必ず連れて帰りました。そのおかげで中国語はネイティブ並みに流暢に話せるので、本当に誇りに思います。

三原で生まれ育った三原っ子の二人は祖父母が遠方(台湾と札幌)ですが、小さい頃から三原のおじいちゃんおばあちゃんたちにずっと可愛がられて大きく育ちました。下の息子が生まれてすぐの頃、両親が近くにいなかったし、一人で魔の二才児と生まれたての息子の世話をしていて疲れきっていた時、いつも近所のおばあちゃん達に助けられました。わざわざ差し入れを家に届けてくれたり、その場で料理の腕を振るってくれたりしました。子供たちがぐずり出したら「兎うさぎ、何みてはねる」と歌いながら「ウサギりんご」を剥いて食べさせてくれたりしました。遠く親元から離れて一人で日本に来た外国人の私は、もちろん留学生の時でも随分日本の方々に親切にして頂きましたが、人情味あふれるこの町で暮らす備後弁を操る三原の人々から更にたくさん教えていただきました。

今までは「教科書の中の日本」、あるモデル(標準語+大人だけの日本社会)を勉強しましたが、三原に来て初めて「もう一つの日本」、いわゆる方言、備後弁丸出しの 世界 + 子供 と共に三原で育っていく機会に恵まれたおかげで、本当の意味で改めて「真の日本」を知ることができました。

例えば方言についてですが、我が家に広がり始めたのは子供たちが幼稚園の頃、ある日帰宅後「すいばりがささった」と言われてさっぱり分かりませんでした。主人も私も標準語なので、あとから知ったのですが、それは「とげ」のことでした。今や毎日のように方言が口から出てきます。また、ある時、入園準備で園から「紐つきタオルと上履き」を準備するように言われましたが、台湾はそういう習慣がなくて戸惑っていました。日本のお母さんは大変だなあと思いました。入学準備で名前を一個一個丁寧に書く作業をさせられた時も悪夢でした。

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日々目からうろこのような出来事がありましたが、こうやって子供たちと共に私も三原で生まれ育った一員として、三原っ子のアイデンティティを育みました。気づかないうちに備後弁と標準語も自由自在に切り替えられていました。やがて知らないことが減り、生活の基盤が順調に整った頃、三原でボランティア活動をし始めました。ある時、衝撃的な出来事に出会いました。それはボランティア活動で介護老人保健施設を訪れたときのことでした。いつものように子供たちと台湾の歌を歌い終わってステージを降りようとしたら、年配の方が皆さんの拍手が終わるや否や声をかけてくれました。「きみは台湾人?わしゃ台湾で生まれて30才までは台湾におったんよ。じゃけぇ、自分も半分は台湾人と思っとるんよ。台湾はいいとこじゃのう。バナナがうまくてね」とタイムスリップしたかのように懐かしげに台湾での思い出を語ってくれました。

施設を後にするとき、おじいちゃんは温かい眼差しで私を見送っていました。きっと私が台湾人だから自分の若き日のことが思い浮かび、特別に距離が近かったことでしょう。でも、私の心の中では、それで終わりにはならなかったのです。帰り道複雑な感情がこみ上げて釈然としないまま帰宅しました。なぜなら実は恥ずかしいことに、日本語学科専攻かつ日本の大学で留学した経験のある私ですが、この方のような台湾に特別な思いを抱いている「湾生」、いわゆる台湾に郷土愛を持った日本人たちの存在を知らなかったからです。台湾の教科書は当然「湾生」の存在を語らないし、日本も終戦後、国の復興に追われていたため、引き揚げた人たちの生い立ちなんてどうでもよかったのです。誰もわざわざ耳を傾けて彼らの声を聞こうとしないでしょう。30年間暮らした土地を離れざるを得ない、このおじいちゃんのような人々の心境は時代の流れの中に誰にも知られないで埋もれてしまうのではないかと私は突然焦り出して台湾人としての使命感に燃えました。このきっかけで、知られざる歴史と生い立ちを、日本の方々にお伝えしたく、歴史の先生だった母に協力してもらい、再勉強し始めました。それから、行政の力を借り三原の生涯学習講座「満喫 台湾発見講座」を開催させていただきました。

もしそのおじいちゃんに出会っていなかったら今の私は果たしているでしょうか。正直、分かりません。でも、このご縁を大切に、14年間我が家を育ててくれた三原市及び市民の皆さんに自分にしかできない恩返しがしていきたいです。

現在、娘は中二、息子は小六になり、彼らにとって三原は生まれ故郷であり、私たち夫婦にとっても共に人生を歩んでいく起点であります。親の背中を見て小さい頃から日本と台湾、両国の歴史、文化に触れながら育つ彼らが両国の架け橋として大きく羽ばたき、やがて次世代に繋ぎたい感性を育んでくれたらと願います。

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まだ、みはらびと歴は14年ですが、これからも私を始めとする三原で活躍する外国人を応援してください。皆さんからの鼓舞は、我々の進む原動力になるので、よろしくお願いします。次回は主人とのなれそめか、三原での活動についてご紹介できたらと思います。

                                                                        怡芳(イーファン)

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【中国語版】
イーファンさんが台湾の言葉(台湾華語)でも同じ内容の記事を書いてくださいました。
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享受台灣x三原 - 很高興認識你們,我叫怡芳。

イーファントップ2

三原市官方Note
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三原市居住著約2,000名外國人。
在市公所的官方Note上,我們將介紹在三原市活躍的外國人及他們所看到的三原市。首先第一位是怡芳,她參與了許多連結三原和台灣的活動,其中包含她在沼田東社區活動中心定期舉辦的台灣講座。
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嗨!很高興認識你們,我叫怡芳。
大家看到我用片假名寫的名字了嗎?是的,你沒看錯,我是一位居住在“三原”的台灣人,最近我的家鄉因為鳳梨在日本大受歡迎而成了家喻戶曉的關注話題了呢。

事實上,台灣和日本一樣也使用漢字,所以我大可以用漢字而不是片假名來介紹我的名字,但是我的名字所用的漢字在日本並不普遍,因此大多數日本人即使看過這個字也幾乎不會唸,所以我總是在介紹自己的名字“ 怡芳”時會“特意”使用片假名,這樣一來,大家就可以輕鬆地記住它啦。屈指算來我在三原已經待了14個年頭了,今年4月剛好邁入第15年,所以三原可以說是我的第二故鄉。

在那之前,我曾到京都大學留學,談到京都,那真可以說是每位外國人都嚮往的美麗城市呢。只要您一出門,馬上就會被“撐著日本紙傘向您回眸一笑的和服美人”所著迷。但是,觀光和居住根本是兩碼子事,住過了才發現原來京都夏天很熱,冬天又很冷,然而讓人驚訝的是日本皇室居然在此處也已經有1200年以上的歷史?仔細一想,中國的北京也以“炎熱的夏天和寒冷的冬天”而聞名,難道這是它們成為首都的特徵嗎?

總被京都盆地氣候煩惱的我,因天賜良緣於2007年3月19日搬到了三原。每天望著瀨戶內海的島嶼風光,加上天晴少雨的藍天,黑暗和沮喪的心情總會瞬間煙消雲散。然而我的故鄉台北,是個大盆地,有著京都的炎熱,又和有名的霧都倫敦一樣,一年到頭常常下雨,濕氣又重,而這個小鎮恰恰與台北相反,是少雨多晴的地中海型氣候,一住過就不想離開了。

其實2007年並不是我第一次踏上這個小鎮,依稀記得學生時代坐車經過國道2號線(現在是185號國道)時,浮現腦海的印象就只是“普通的城鎮”而已。而當我開始定居在三原的初日午餐時光是在一個叫古濱的“OKAME”手打烏龍麵店渡過的,這個小鎮對當時的我來說仍是個陌生的地方,所以中餐是先生帶我去吃的。那麵條非常有嚼勁,湯頭又美味,至今還是回味無窮哩!

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時光荏苒,三原早已成為我的第二故鄉。在三原市組織家庭並生下女兒和兒子,這期間我遇到了許多溫暖的三原市民,而多數的緣分都是由於我的兩個寶貝孩子才牽起的。起初,我和孩子們參加了菲律賓人的義工團體,並在五月節祭典的舞台上跳舞。我讓我的孩子從小積極參與各種活動,並且和各種國籍的人交流,希望他們能夠在耳濡目染下接觸與吸收許多不同的文化。加上只要學校放長假,我一定堅持帶他們倆回台灣。因此,他們的中文說得和母語者一樣流利,這也是值得我驕傲而又開心的一件事。

兩個孩子在三原出生和長大,雖然和祖父母(台灣和札幌)的距離遙遠,但很幸運地,他們都在三原地區的爺爺奶奶們的關愛下健康地長大了。尤其生了老二之後,由於父母不在身邊,我獨自一人照顧著兩歲的女兒和襁褓的兒子總感到精疲力盡,好在附近的婆婆們總是帶些好吃的給我,甚至於更厲害的就直接在廚房裡當起本日主廚,展露他們精湛的廚藝。當孩子們開始哭鬧的時候,婆婆會馬上邊哼起日本童謠“兔子兔子,你看到了什麼?” 邊削“兔子耳朵的蘋果”給我的孩子吃,他們馬上就破涕為笑。當然,作為一位遠離父母隻身來日的外國人,在留學生時代早已碰到許多友善的日本人,但自從定居三原後,這個操著備後國方言的三原小鎮人民教給我這位外國人的東西又比以前更多了。

這怎麼說呢?其實在留學生時代,我學到的只是“教科書中的日本”,就是一個模型而已(東京標準語+只單純和成年人相處交際的日本社會),但是自從我來到三原市以後,所謂的“方言”,備後國語言互相交織的世界就變成了我所不知道的“另一個日本新天地”,來到這個小鎮,我才真正在意義上得到了重新認識日本的機會。

首先,關於三原的方言開始在我家迅速蔓延的是在孩子們幼稚園的時候,記得有一天,當孩子們放學回家,跟我說“我被SUIBARI刺到了”時,我腦子一片空白,不懂他們真的是在說日語還是在說火星語,我和先生都是說標準語的,後來因為某個因緣際會才知道這是“刺刺的東西”的意思。而現在,一家四口每天都會不自覺地會有幾句方言從嘴裡冒出來,見怪不怪了。還有,幼稚園入園準備時,被老師告知需要為孩子準備“縫上掛繩的毛巾和室內鞋”,當時的我十分錯愕,因為台灣並沒有需要媽媽為孩子準備的東西,感覺日本媽媽真的像超人一樣。我還依稀記得孩子要上小學時,我慌張地趕在入學前一天為他們的每一項學用品填上名字的畫面,那簡直是一場噩夢啊。

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雖然每天都有不懂的事情,但理解後也就如醍醐灌頂般茅塞頓開了。漸漸地在歲月的加持下,我和孩子們都具有了一種身為三原人的氣質,也熟稔如何在方言與標準語之間自由地做切換。不懂的事情也越來越少,生活也漸漸的步入正軌,所以我開始帶著孩子們在三原市當起了志工。在做義工的某日,我遇到了一件改變我人生的大事,那就是在拜訪一間老人長照設施的時候,我和孩子們如往常般唱完台灣的歌曲正準備步下舞台時,一位年邁的長者在掌聲落下之後,馬上對著我說“你是台灣人嗎?我出生於台灣,直到30歲都待在台灣呢。嗯!我想我應該也算是半個台灣人吧?台灣真是個好地方啊,那邊的香蕉好好吃的哦”。他彷彿掉進了時空隧道似的,嘴裡懷舊地叼唸著他對台灣的記憶。

當我要離開時,老人帶著一種他鄉遇故知的表情,目送我們離開。也許我的台灣人的身分對那位老人來說,不但勾起了他的年輕記憶,也帶給他一種特別親切的感覺吧?然而這天發生的一切對我來說並不因此畫下了休止符,反而正好是一個起點。回家路上,一種複雜的情緒湧上心頭,久久不能釋懷,怎麼說呢?我一個日文系本科出身,還在日本的大學留學過的人,竟然不知道日本有一群像那位長照設施裡的長輩一樣對台灣有著特殊情感的“灣生”的存在。當然台灣的教科書裡不可能提到“灣生”,戰後日本也忙於國家重建,這些因戰敗而被遣返的“失敗者們”,等著他們的,就只有自己國人對他們的歧視,誰會在乎這些大時代的小人物呢?我,作為一位台灣人,突然想到那些像這位爺爺一樣的這群人,因為戰敗不得不離開他們居住了30年以上的土地,他們的故事和生命隨著歲月磋跎而漸漸凋零,不知不覺地就被時間的洪流所掩蓋。我開始著急了,身為台灣人的使命感也被點燃了。因此,我開始認真思考與重新了解這段不足為人道的滄桑歷史,也有幸得到市公所的協助,在2019年起開始定期開辦三原市的終身學習課程“享受台灣 探索台灣”。

如果我沒有遇到那位爺爺,我會像現在一樣嗎?我不知道,所以我想一直珍惜這個緣份,用以報答滋養我們全家的三原市和市民們,做這只有“我”能做到的回饋。

フェリー

目前,我的女兒已經中學二年級,兒子也讀小學六年級了,三原一直都是他們最愛的故鄉,也是我們夫妻共同邁向人生另一個旅程的起點。我希望從小就接觸日本和台灣歷史文化的他們,最終也能擔起兩國之間的友好橋梁,並培養出願意將這份歷史情感傳達給自己下一代的熱情。

雖然我的三原人年齡只有14歲,但請繼續支持我和其他活躍在三原的外國人,你們的支持會成為我們的原動力。下次有機會的話,我想介紹我和先生的相識契機和我在三原市的活動內容。還請大家繼續關注我唷。

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