昭和、平成、令和……時代が変わっても愛され続ける洋菓子を三原からお届け!
この記事は、2021年10月取材時点での情報です
【食づくり】
ケーキハウス シャンボール
田尻香里(たじり かおり)さん
「懐かしい!」「レトロでかわいい!」そんな声が聞こえてきそうな、真っ白いリング型のケーキ。『シャンボール』の「アデーシャン」は、50年ほど前に誕生して以来、三原っ子に愛されてきた洋菓子です。ふわっとやわらかいスポンジ生地に、程よい甘さのバタークリーム。変わらぬ味を守り続ける三代目・田尻香里さんにお話をお聞きしました。
祖父から父へ、父から娘へ。親子三代で紡ぐ『シャンボール』の歴史
『シャンボール』の始まりは、1962年に香里さんの祖父が三原市港町に開店した和菓子屋『清月堂』です。ちまきや生菓子を販売する町の和菓子屋として愛されていましたが、1972年に香里さんの父親が受け継いだ際に「これからは洋菓子の時代だ」と洋菓子店へリニューアル。その際、店名は現在の『シャンボール』となりました。
そして、店の看板商品として考案されたのが、当時主流だったバタークリームを使ったケーキの「アデーシャン」でした。見事、店の人気商品として評判になり、定着した「アデーシャン」。
『シャンボール』は三原の人気洋菓子店となりましたが、2000年に東広島市へ移転することに。香里さんはそんな祖父や父親の背中を見ながら育ちました。そして約20年間、東広島市で営業した後、「創業55年目の節目を迎え、創業地である三原で再スタートしたい」と考え三原へUターン。2019年11月、香里さんが3代目としての三原市東町に店を構えました。
一度三原から移転していたこともあり、不安はあったそうですが、三原のお客さんからは「帰ってきてくれてありがとう!」「昔、通っていたんよ~」と温かく迎えてくれたそうです。
甘い香りが懐かしい! 実家を出て気づいた洋菓子への思い
洋菓子店の娘として生まれ育った香里さん。小学生の頃は店の上の階が自宅のため、学校から帰るとよく店に顔を出していたそうです。
いつ店を継ぐことを決意したのでしょうか。「周りからはずっと『継ぐんじゃろ?』と言われていましたが、親は『好きなことをすればいい』と自由にさせてくれました。お菓子を作ることはあっても、仕事にしようとは考えていなかったです」。
18歳の時、香里さんは大阪の短大に進学。洋菓子店があふれる神戸では、街を歩くだけで甘い香りが漂ってきます。そのうち、ふつふつとお菓子を作りたいという思いが沸いてきたそうです。
「甘い香りが懐かしくて。脳に染みついていたんでしょうね」。香里さんは短大を思い切って1年で辞め、製菓の専門学校へ入学。神戸の洋菓子店『ツマガリ』で販売員として就職しました。
しかし、21歳の時、阪神・淡路大震災が起こり、実家へ戻ることに。帰郷後は、父親から「アデーシャン」をはじめ、菓子作りを学びます。「ケーキ作りの師匠は父。親子だと厳しいイメージがあるかもしれませんが、父は優しかったですね。私がこれを取り入れた方がいい、こういうやり方をしたらいい、と言ったことは認めてくれました」。
その後、歴史ある店の三代目になった香里さん。信用、信頼など長年築いてきたものは大切に、先代、先々代がやってきたものを裏切らないようにと日々菓子と向き合っています
大好きな三原の町を洋菓子で盛り上げたい!
現在の『シャンボール』の洋菓子は、先代から教わったレシピをベースに、現代風にアレンジしたもの。
例えば、「アデーシャン」は、昔より砂糖の量を減らし、ショートニングはバターに変更、そしてレモン塩を付けるようになりました。実はこのアレンジはお客様からのアイデアがきっかけ。「『粗塩をかけて食べたらおいしかった』と聞き、やってみたら本当においしくて。佐木島でとれたレモンの皮と瀬戸内海の粗塩で作ったレモン塩を付けるようにしました。最初はそのままで、途中からレモン塩をかけて味の変化を楽しんでもらえれば」とのこと。
また、安心して子どもと一緒に食べられる洋菓子を提供したいとの思いから厳選した食材を使用しています。
今後の夢を聞くと、「受け継いだことは守りつつ、新たな商品作りにも挑戦していきたいです。それと、大好きな三原の町を盛り上げていきたい!」と意欲を燃やします。
香里さんは、東広島に店を構えていた時も三原に住み、毎日車で通っていたほどの三原好き。「三原は温かくていい町ですよ。やっさ、神明さん、さつきまつりなど、祭りも多くて楽しいし。三原に遊びに来てもらい、帰りに『シャンボール』でケーキでも買って帰ろうか、となるのが一番うれしい」と微笑みます。
歴史と三原への愛がたっぷり詰まった『シャンボール』の洋菓子たち、ぜひ一度味わってみてください。